人事制度とは不思議な制度です。ある程度の規模の会社になれば、絶対に必要な仕組みでありながら、人事制度によって成功した会社は案外少なく、むしろ、人事制度によって会社が悪い方向に向かっていくケースはたくさんあります。
【衛生要因として考える】
人事制度が上手く機能してない会社に共通する勘違いの一つに「人事制度をメインエンジンとしてモチベーションを上げよう。」という過度な期待があります。古典的な心理学のハーズバーグの『動機付け・衛生理論』を使って説明すると、人事制度は「動機付け要因」ではなく「衛生要因」であるとされています。実際に、人事制度が上手く機能している会社では、人事制度を「衛生要因」として捕らえて、将来への不安、現在の不満を最小化することを優先して設計しています。
一方、人事制度を活用して、主に「地位」と「経済的報酬」をネタにして「動機付け」を狙っている会社の多くは失敗をしています。もちろん、会社が成長しているときは、それでも動機付けになるのですが…。低成長の中、実現されないことによってマイナス効果になることが多くなっています。当たり前のことですが、制度自体でモチベーションが上がるのではなく、実現されることによって、はじめてモチベーションにつながるのです。実現できない経験を重ねているうちに、逆に、マンネリ的に沈滞ムードが漂い、モチベーションが下がっていく組織が多いのです。
【「納得すること」と「グーの音も出ないこと」は違う】
二つ目が、過度な「納得性の追求」です。納得性を高めることはとても重要なことですが、あまりそれにこだわり過ぎることです。管理職(評価者)として人事制度に関わった経験をも持つ方ならお分かりでしょうが、被評価者の反発や抵抗は、相当のストレスになります。特に素行の良くない社員ほど、「評価の基準が曖昧で評価者の主観で評価されていて、評価結果に納得できない。」と声を大きく不満を突き上げてくるものです。
そのストレスを回避するために、判断する際の基準を具体的にして、判断する側の人間の感覚による部分を排除して、誰が評価をしても同じ結果になるような制度運用にしたいという気持ちはわかります。しかし、行動評価はどんなに具体的な記述をしても、所詮、評価とは「感覚」による要素を排除することは難しいですし、そもそも無理があるのです。なぜならば、円滑に仕事をするうえでは、この「感覚」がとても大切なのです。
野球で例えるとわかると思いますが、球速150km以上のピッチャーが打たれて、一方、140km以下のピッチャーが打たれないと言うことがあります。これは、球速のように誰もが数値でわかる優劣ではなく、駆け引きや間合いの取り方など、極めて感覚的なものにより優劣が決まっているからです。このようなことはビジネスにおいても良くあることだと思います。
そもそも「グーの音も出ない(反論できない)」と言うことと「納得できる」と言うことは少し違うのですが、いつの間にか、不満分子から反論が出てこないようにすることが主目的になって、数値化や具体的基準作りにこだわり過ぎて、おかしな制度になっていることが多いのです。
【「意識を高めること」と「評価をすること」は違う】
最後にお伝えしたいのが「意識を高めること」と「評価・処遇すること」混同してしまうことです。代表的な例として「部門損益」が挙げられます。言うまでもなく、自部門の損益を意識して仕事をすることはとても大切なことなのです。しかし、人事制度をメインエンジンとしてその意識を高めていこうとすると様々な問題が起こってきます。
「人事制度をメインエンジンとして・・・」とは、「意識」は評価測定できないので「結果(数値)」を評価することより、意識を高めよう方法です。全くそれを人事制度(評価制度)と連動させないのも問題なのですが、その結果と報酬を直結するような人事制度にすると、本来の意図とは異なり、妬みや不満、セクショナリズムが起こり、短期的に帳尻を合わせることが目的なってしまうのです。
最も怖いのは、数値による評価が、最も客観性が高く公平に見えることにあります。頭のいい人であれば、定義の仕方や測定方法により、極めて恣意的に動かせるのです。そう考えれば数値結果は運用次第では不公正な評価軸になるのです。以前、某倒産企業では、「優秀な部門管理者とは、自部門に有利な低い目標を設定して、確実に達成させられる人」と言う話をしましたが、まさにその通りなのです。また、企業不祥事などを見ると、「偽装」や「粉飾」など人事制度が起因していると思われることもたくさんあるようです。
時代は繰り返されるのでしょうか。2000年前後にアメリカ型の「成果主義」を導入して、失敗した会社がたくさんありましたが、近年また、その動きが強くなってきたように思います。