サムスンブループが最初に中国に拠点を構えたのは1986年。当時香港にはサムスン物産を始めてとして、サムスン電子、第一製糖(今のCJ)、第一毛織、サムスン重工などが独自に中華圏貿易を展開していたが、中国での最初の拠点は、グループとして進出することになり、北京に「星進有限公司」という名前で連絡事務所を開設した。1985年末時点で、すでにサムスングループはグループ総額で1億9千7百万ドルの対中貿易額があり、そのうち輸出が1億5千百万ドルを占めていたが、本格的に拠点をもうけるのは、この1986年になってからのことである。当時は中国と韓国の間には外交関係がなかったので、韓国企業の名義では北京に正式な事務所を設置できず、香港にペーパーカンパニーを設立した後で、北京に連絡事務所を開設するという形態をとった。
その後、グループ間の利害関係で対立することが多く、いざこざも発生するようになり、中国にグループとしての統括機能が求められるようになる。1992年頃からサムスングループ各企業は、本格的に中国投資を始めることになるが、この当時中国に設立したサムスングループの現地法人の大部分は、すでに韓国では売れなくなった中低価格製品の製造拠点であり、安い土地、労働力そして税制上の恩恵を活用して生産活動を行い、韓国に再輸すること、または、第三国に輸出することを目的としていた。1995年に設立された地域本社も、現場での迅速な意思決定を促進して、現地化を達成するための手段であり、中国本土にサムスンブランドを浸透させるためのものではなかった。
しかし、サムスンの中国戦略に大きな転機が訪れる。それは、中国の携帯電話でCDMA方式が採用され、サムスンの携帯電話がCDMA方式の代名詞となったことである。CDMA方式の「ANY CALL」が発売されるまでは中国の携帯電話市場で圧倒的なシェアを保有していたのはノキアである。この市場に、サムスンはノキアの携帯よりも単価が高い「ANY CALL」を投入した。単なる携帯電話ではなく、一世代先を行くCDMAフォンというコンセプトを打ち出し、サムスンの「ANY CALL」は中国市場で若者世代向けに大ヒットを引き起こすことになる。若年層の間で、「ANY CALL」が裕福な身分の象徴のような位置づけとなったのである。サムスン製携帯電話は、その後中国市場で、さらには、世界市場で、ノキアの携帯電話の圧倒的なシェアを覆すことになる。
サムスンは中国戦略の転換をきっかけに、中国市場を、低価格でものづくりをする市場ではなく、先端技術を基盤においた最新製品で勝負する市場として取り組むように方針を転換した。その後の中国市場におけるサムスンブランドの躍進については、今更述べるまでもない。
前回の記事でインドでは地場のスマホのシェアが伸びている事例について言及させていただいたが、サムスンの携帯電話はインドでも圧倒的No.1のシェアを保有している。サムスンは中国だけでなく、他の新興国でも、トップ戦略を貫いている。わが国では、サムスンブランドといえば、先進国向けに低価格戦略で取り組み、シャアを拡大してきたというイメージが強いが、新興国においては、サムスンは憧れのブランドである。
事業において、自社のブランドを確立するのは、自社ではなく、市場である。市場に対して品格をもった取り組みをしていれば、市場が高く評価することになるし、そうでない取り組みをしていれば、市場は低く評価することになる。取り組む市場と衝突してはいけないが、迎合する必要はない。最近、新興国向けに低価格戦略で取り組む日系企業が増えているが、そのことに対しては個人的には大変危惧している。成長する市場のボリュームゾーンである中間層を取り込むという方針は間違いないと思うが、中間層のニーズに合わせた商品を投入するのではなく、中間層の需要を作り出すことが重要である。
サムスンの新興国戦略、そして世界戦略には、学ぶところが多い。