「マーケティング」とは何か?
多くの書籍、あるいは論文等で使われているのは、アメリカ・マーケティング協会の定義だ。
日本語に訳すと、「マーケティングとは、顧客、依頼人、パートナー、社会全体にとって価値のある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動であり、一連の制度、そしてプロセスである。」ということになるらしい。
つまり、「売るための仕組み」ということになるのだろうが、そうは言われてもというのが現実だろう。
よって、多くの企業から「ウチはマーケティングが弱い」という話が出てきてしまうのだが、
そのような表現をしている限り、どこに手をつけてよいのかがわからないということになってしまう。
誰もが期待するのが、「手のつけ方」には一定のルールがあって、それに則って改善を進めれば「ウチはマーケティングが強い」と言えるようになることだろう。
しかし、「手のつけ方」に一定のルールなど無いと考えた方が良い。
マーケティングのフレームは、かのフィリップ・コトラーが提唱したように、ターゲティングと4Pに収斂される。
あるべき姿は、「明確なターゲットが定まる」、「そのターゲットが価値を見出す商品を作る」、「そのターゲットが買いやすい価格で提供する」、「そのターゲットの目に留まりやすい販促手段をとる」、「そのターゲットが買いやすい場所に商品を展開する」ことである。
つまり、「マーケティング戦略には一貫性がなければならない」ということだが、あえて言い切ってしまえば誰でも知っていることだ。
しかし、これだけでは「手のつけ方」に対する答が見出せない。
なぜならば、現在のあらゆる市場において、競合企業が同じようなターゲットに対して、同じような商品で、同じような価格で、同じような販促手段で、同じような場所で、展開しているからである。
高度経済成長の波に乗って、日本企業が大切にしてきた成功の法則に「良いものを、より安く、多くの方に」がある。
この考え方は、“日本総中流階級”という非常にわかりやすいターゲットが一番のボリュームゾーンだったからこそ、
複数の競合企業が利益を分け合いながらやってこれたことを証明しているとも受け取れる。
そのような環境下では、“後追い”マーケティングでも十分通用しただろう。
顧客調査、グループインタビューで収集した意見を反映して、商品を開発する。
競合企業が先行して発売した“売れている”商品を、少し改良して発売する。
この“後追い”マーケティングが通用しなくなったからこそ、「ウチはマーケティングが弱い」会社が増えたように感じるのは間違いだろうか。
そう考えると、これからは“待伏せ”マーケティングの時代だ。
というか、すでにそうなってきており、それが出来る一部の会社がいわゆる勝ち組に入っている。
そのカギは、ターゲティングだ。これから、どんなターゲットが現れるのかを予測し、そのターゲットが価値を感じる商品・サービスを提供する。
考えてみて欲しい。予測できる人にはそれが可能だったことを。
技術力向上によるインターネットインフラの普及は、その世界に身をおく人の一部には見えていた。
あるいは確信していたからこそ、新たに現れるターゲットに対する準備ができたわけだ。
グローバル化の進行は、必然的に所得の二極化につながることが見える人には見えていた。
だからこそ、富裕層、低所得層といった新しく現れるターゲットが生まれることを予測して準備ができたわけだ。
会社の上層部の決裁をとるために顧客調査データが必要、などと言っているような組織は、
どんどん取り残されていってしまうような気がしてならない。