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[アキバレポート3]世界はOTAKUをCOOLと言う!! 閉塞感のある日本をアキバ消費で突破せよ!

アキバの魅力は「OTAKU」にある。その特徴をこれまで2回にわたって解説してきた。筆者は「オタク」と「OTAKU」を以下のように違うものとして定義づけている。

オタクはアニメ、漫画、ゲーム、PCなどのマニアの人たちを指し、閉鎖的な印象を持つ。「OTAKU」は世界に向けて発信されている日本独特のPOPカルチャー全体を指し、大衆も楽しめる、明るく健康的な印象だ。

今や若者にモノを売りたければ渋谷や原宿ではなくアキバだとも言われている。それほどアキバでの若者消費は盛り上がっているのだ。

今回はアキバ変遷の歴史を追い、アキバが作り出した新しい消費スタイルを整理する。閉塞感のある日本の消費市場を打開するヒントが、アキバにあるという理由をお伝えしたい。

■ アキバの変遷
アキバの最大の魅力は街の猥雑性にある。裏通りの小さな雑居ビルの中にOTAKU達が集う店が山のように存在している。しかし、治安の悪い通りにはなっておらず、健全な裏通りとなっている。表通りには家電量販店が軒を連ね、また最近では、一流企業が入居する最先端の設備を備えたオフィスビルやおしゃれなカフェも増えている。

アキバのような街は世界中を見渡しても、筆者は見たことがない。筆者は20年間にわたってさまざまな街を歩いてきたが、アキバのようなカオスな街を知らない。ここで言うカオスとは、いろんなものがごっちゃに混じりあって混沌としているものの、整然と融合している状態のことである。このカオスこそがアキバの最大の魅力であり、それがあるためにサラリーマン、若い女性、小さな子どもたちまでを集客する街になっているのだ。時代と共に街の顔を変えつつ、その時代を引っ張ってきたアキバという街にはどのような歴史があるのだろうか。

■ アキバのカオスは闇市から
1925年にラジオ放送か始まり1927年にアマチュア無線が解禁になって以降、無線関連部品需要が高まった。この頃から、秋葉原には真空管などの電子部品商がいたようである。その後、東京大空襲で焼け野原となったあとに、もともと電子部品商たちが再び集まり、「秋葉原に行けばなんでも買える」という評判になった。つまり1950年代にはすでに今のアキバのコンセプトは出来上がっていたと言えるのである。

1947年までには家電量販店業界で、後に急成長する企業が秋葉原に店を移すか創業している。山際電気商会、廣瀬無線、谷口商店(ラオックス)、石丸電気、サトームセン、ロケット、九十九電機などである。〇〇無線という企業名が多いのは秋葉原の歴史とも非常に深くつながっていることがよく分かるだろう。
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1960年代に入ると日本は空前の家電ブームとなり、秋葉原にはひっきりなしに客が集まるようになり、一説には「全国の家電売上の2割を秋葉原で占めた」(出典:週刊ダイヤモンド 2010/09/25)と言う。60年代の家電、70年代のオーディオ、80年代のレコード、そして後のパソコンブームの発端となるマイコンブームが沸き起こり、秋葉原は家電の街として、その地位を揺るぎないものにする。

同時にこの頃から日本ではアニメが本格的に制作され始め、79年放送開始の「機動戦士ガンダム」が伝説的な人気となっていく。これと前後してマイコン、ファミコンなどがブームとなり、90年代前半からいよいよ秋葉原はパソコンの街へと変わっていくのである。

その大きなきっかけは95年のマイクロソフトWindows95が発売されたこと。この頃、秋葉原の家電専門店各社は一斉にパソコン販売へとシフトし、空前のパソコンブームを支える街として認知されるに至った。

この1990年代のパソコンブームが秋葉原を現在のアキバへと変えるベースとなっている。パーツ販売に家電量販店業界が乗っかり、そこにマイコン、オーディオ、パソコン関連商品が揃っていった。さらにレコード、レーザーディスクなどの音楽ソフト、映像ソフトなどを取り扱う店が増え、美少女関連ゲームなどが売られ始めた。結果として無線マニア、家電マニア、パソコンマニアなどのいわゆるオタクが集まる街になったのである。

一つ一つの商品は秋葉原の街の組成の中でつながっており、その購入者も自分の興味にあわせて品揃えが広がっていくアキバに魅力を感じ、自然とオタクの集まる街になったのである。

つまり秋葉原の歴史は、オタクを中心としたマニア層と、家電、オーディオ、パソコンブームが集客したマス層とで出来上がっており、これが「オタク」から「OTAKU」へと客層を変化させていくきっかけとなったのである。
そして2000年代に入ってパソコンブームが終焉し、海洋堂(フィギュアなどのメーカー)が秋葉原ラジオ会館に出店したことで、さらにOTAKUを呼び集める大きなきっかけになった。これに政府が当時進めていたVisit Japanキャンペーンが功を奏し100万人以上の外国人観光客がアキバに立ち寄り、一気に世界にアキバの存在が知られることになったのである。アキバがCOOLと言われ、外国人観光客が日本で行きたい街として必ず名前が挙がるようになっていった背景には政府の地道な努力もあったのだ。

■ アキバが作った新たな消費トレンド
アキバの歴史を見て気づくことがあるだろう。

それはアキバの街としての変遷は、常に新しい消費トレンドを生み出しているということである。

第1期から2期の無線パーツ、ラジオ、家電の時代はオタク消費の萌芽期時代。第3期から4期までのマイコン、オーディオ、パソコンの時代はオタク消費の時代。第5期からがOTAKU消費の時代というように分かれる。

もともとは秋葉原はコレクターでありそれぞれのマニア心を満たすような街であったから、一般人には近づきづらい街だった。だから家電製品を安く買わないといけない時に抵抗もあるけど訪れる街だったのである。

その後、マイコン、オーディオ、パソコンとメイン商品が変わることで、オタク消費の萌芽期から本格的なオタク消費へと変化してきた。これまでは無線やパーツのコレクター、蒐集家といったかなり狭い志向だったのが、オタクというオーディオ、アニメ、漫画、ゲーム、PCなどの趣味関連マニアへと広がっていったのである。

その後、PC需要が一巡し、PC関連のハードが売れなくなると、一気に街がソフト化し、同時にもう少しファッション的な意味合いが強いOTAKU消費へと流れが加速した。

結果的にこのOTAKU消費がアキバの盛り上げに一役買ったのであり、世界へと広げるキーワードになっている。

そして、私はこのOTAKU消費が新しい消費スタイルであることにも気づかされたのである。
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私は今の消費スタイルを4つに分けて整理していた。

いわゆるマル金のスーパーリッチ層。彼らの多くは60代以上の富裕層である。コテコテ消費はバブル時代を謳歌した40~50代があてはまる。お金を使う消費者はこの数年で減少しているのが実態である。

この数年はデフレで年収が下がり、低所得でも買えるような低価格居酒屋、ファストファッションなどの消費が伸びてきた。ここにはさまざまな年齢層があてはまる。同時に伸びてきたのがシンプル消費だ。「下流社会」の三浦展氏が名づけたシンプル族(1970年代生まれのモノにあまりこだわりを持たない人達)の消費スタイルである。モノをあまり消費せず、手作りを大事にし、基本的な生活を大切にするという新しい消費スタイルである。この消費スタイルの登場により日本ではモノへの消費に向かうことがなくなってしまったのかと思われた。

ところが秋葉原には、これまでの消費スタイルのどれにも当てはまらない新たな消費スタイル、「アキバ消費」があった。見た目はシンプル族のような若者が、アキバでは積極的にお金を使う。アニメやフィギュア、PCパーツやAKB、そして同人誌と興味の幅はそれぞれであるが、皆、ここでは喜んで、金をつぎ込むのだ。つまり、すでにモノに対してはお金を使う人がいなくなったと思われていた象限に、まったく新しい消費スタイルが登場したのである。

さらにここに100万人以上の外国人観光客が加わり、高額消費市場も生み出している。外国人観光客狙いで作り出したのではなく、まずは日本人マニア向けで完成された街が、結果として外国人を熱狂させる街になった点が特筆すべき点である。

従来の発想では、日本は人口減、出生率減、高齢者の増加、デフレの継続などにより、日本市場はどんどんシュリンクし、もはや商売するところはなくなってしまったのでは、と思ってしまうほどだ。

しかし、まだまだ隠された消費市場が日本にはあった。アキバ消費は1つの商品やサービスが売れているのではなく、たくさんの商品やサービスにお金が使われている市場である。アキバ消費発祥の地である秋葉原は、マニアやオタクだけに支持されていたが、幅広い年齢層を集めることに成功し、街が活性化した。

アキバに集まる消費者の心を掴むことができれば、これからの日本で売れるものはいくらでもあるということである。アキバを見ていると、日本企業が生きていく道が分かる気がする。そしてアキバに生まれる新しい商売が閉塞した市場を打開するヒントになるはずだ。アキバ消費のこれからの変遷に引き続き注目してみたい。そして、新たなマーケティング手法を体系化してみたい。

(出典:ダイヤモンド・オンライン